マルチな物の見方

 人を傷つけた。
 と、思う。その言葉を言えば、その人が傷つくと分かっていた。きっとがっかりするのだろうと思いながらその言葉を発した。相手が傷つくことは分かっている。救いを求めて私の所に連絡をしてきたのだろう相手。その傷の上にさらに塩を塗り込むような言葉だった。それも理解している。しかし、その言葉が私の真実であることに間違いはない。さらにいえば、私の現実は、今よりももっと相手を傷つけるだろう。それを知らせるのをずっと先延ばしにしてきている。傷つけるのが恐くて。落ち込ませるのがイヤで。
 分かっていて傷つけて、それが気になって眠れなくなってしまった。
 人間は人に迷惑をかけずに生きていくことが出来ない。多かれ少なかれ、誰かに迷惑をかけながら生きている。自分の進みたい道が人の目の前を遮ることもある。その時に、一体どうすればいいのか。
 昔から、誰かの目の前を遮ることが恐くて、なるべく避けて通ってきた。自分を抑えて、なるべく人を遮らないように気を遣って生きてきた。高校の頃の友達には「人の迷惑を気にしていたら自分が生きていけないよ」と言われていたけれど、どうしても、私にはその考え方ができない。友達の言っていることも正しいと思う。分かっていて、恐くて出来ない。
 物事を、多面的に見ようと努力をするようになった。昔は(といっても小学生とか中学生とかの頃だけど)直情的でまるでイノシシだったから、自分が正しいと思えば誰を傷つけようが非難しようが、一直線に突き進んだ。今でも頭に来てしまうとそうすることがある。それでもなるべく多人数・たくさんの立場の人に話を聞いて、その上で自分が正しいと思えば進むようにしている。
 直情的だった頃の自分を恥ずかしいと思う。自分の狭い視野の中で人を馬鹿にし、傷つけてきた。今思い出して考えてみたら、間違ったことは言っていなくても視野が狭すぎて、情けなくて恥ずかしい。
 ただ、マルチに物を見るようにするようになってから、物事の判断がつけにくくなった。答えを出すことが出来なくなった。いろんな人がいろんな立場で物を言う。自分にも自分の立場の思いがある。だけど、何が正しいのか、はっきりと口に出せない。例えば原爆のこと。私は日本人で、被爆者の孫で、だから原爆に対して否定的な思いがある。ただ、戦勝国の立場から見れば、原爆は戦争を終わらせるきっかけになったものであり、否定的に見ていない。その考え方も、理性では納得できるのだ。私と同じ日本人でも、原爆原爆って声高に言うのを否定的に見る人もいるし、アメリカの人でも広島に来て原爆ドームの前で涙を流す人もいる。「じゃあ、原爆って○○なんだ!」と、私にははっきり言うことが出来ない。子どもに教えるときにも、ものすごく気を遣う。
 中国の抗日運動にしろ、韓国の人が「日本は謝罪しろ」と言うことにしろ、ある意味うらやましいと思う。きっと、自分達の物の見方に自信があるんだろうなあ。もちろん、個人的な感情論では「許す気もないくせに謝れとか言うな」と思うのだけれど、中国や韓国の人の立場を考えれば言いたいことは理解できるし。
 マルチな物の見方をすることそのものは正しいと思っている。ただ、判断をつけなかったり先延ばしにしたりするのはずるいのではないのだろうか。それが不安なのだ。理性では理解できて、相手の言うことを分かっていても、個人的な感情がついて行かないこともある。わがままなのか、それが人間なのか。
 あー。うまく言えないし、いい加減午前4時半なんだから寝た方がイイと思うんだけど(註:12時から2時半くらいまで寝てたんだけど、一度ふと目が覚めて眠れなくなった。ここ2日ほど睡眠時間が異常に少ないんだけど、大丈夫ですちょっとは寝てます許して下さい<誰に言っている)取りあえず自分の考えをまとめたいというのもあってつらつらと書いてみた。こういう状態でアップするのは初めてかも。